だめだめ室町幕府

管轄 役名
管領 将軍の補佐役で幕政を統括。将軍の幼少時などでは、将軍の代理として強大な権限を発揮していたが、後には権力は低下し評定の主催者に過ぎなくなってしまった。細川・斯波・畠山の三家(三管領)が交替で就任。
御相伴衆 将軍臨席の宴席や他家訪問の際に随従、相伴する人々の事。一種の称号で幕府内の身分としてはあまり意味はなかったが、任命される者が管領家の一族や有力守護大名に限定されていたため、幕府内の職制にも反映されて管領に次ぐ席次を与えられるようになった。大名の格式を示す身分として戦国時代では有力地方大名(朝倉、北条、三好など新興で権威が必要であった大名)が任じられた。
国持衆 足利一族や大国守護で管領や御相伴衆になってない者に与えられた名誉称号。
準国主衆 国持衆に次ぐ席次でこちらも名誉称号。
外様衆 国持衆の分家や弱小守護に与えられる名誉称号。
御供衆 将軍外出時に供奉し行列の行装を整えるのが役目で、御相伴衆のように幕府における身分・格式を示す一種の称号であった。格式は御相伴衆・国持衆・準国主・外様衆に次ぐもので
構成員としては幕府の武官である奉公衆、政所執事である伊勢家、御相伴衆を出す家の子弟や弱小守護家の当主などで、御相伴衆のように名目だけではなく、将軍護衛という実質的な役目の為に単純な名誉職にはならなかったという。
御部屋衆 格式は御供衆に次ぎ、将軍の側近官としての名誉称号で、譜代家臣、畿内の有力国人などが任命された。
節朔衆 格式は申次衆に次ぐ。節句、朔日に将軍に目通りを許される。
走衆 格式は節朔衆に次ぐ。奉公衆で将軍直参。将軍外出のとき、徒歩で共をし前駆を勤め警固を勤める他、雑用に当たった。後には名誉称号として国人に与えられたりもした。
評定衆



引付衆
評定衆 幕府の最高政務機関であり有力守護、足利一門が任命される。定員は24名程度
評定衆にも「式評定衆」と「出世評定衆」があり、式評定衆は例式などの評定のみに出席した評定衆で、そのほかは出世評定衆と称した。
引付頭人 引付方の長で引付衆を統括。裁判担当官。定員は五人で一番〜五番引付頭人があり、一番引付頭人が筆頭で管領に次ぐ地位であった。、足利一門が就任すると頭人、他の者であると権頭人となる。
引付衆(内談衆) 有力守護が任命され、評定衆の下、鎌倉府、九州以外の所領問題を取り扱う。
開闔 奉行衆の首座で、内談衆の評定において書類・文書の出納・勘査を行うことを職掌とし議事進行の実務を行った。また侍所にも同名の職責が置かれ事務と司った。
開闔代 開闔の補佐で評定において書類・文書の出納・勘査を行う
右筆(祐筆) 評定での書記、文書事務官
評定衆



引付衆管轄
評定奉行 評定衆の筆頭で政所評定の幹事を勤め、評定衆の席次、人事を司った。
公人奉行 奉行衆の筆頭で右筆・奉行衆の人事を担当。また評定奉行とともに幕府の重要な評定に参加した。
守護奉行 守護の人事を担当
賦別奉行 訴訟を受理して担当局に分賦する役職
恩賞奉行 恩賞・論功行賞を司った。
安堵奉行 武士・寺社の領地相続・旧領回復のとき、調査して御教書を下す。
官途奉行 朝廷の官位叙位・叙任を司った。
社家奉行 神社行政をつかさどる職務で神社の訴訟なども取り扱う。
寺家奉行 寺院行政をつかさどる職務で寺院の訴訟なども取り扱う。「寺奉行」とも称した。
東大寺奉行 東大寺の幕府への連絡、折衝、取次ぎを司った興福寺奉行と合一して「南都奉行」とも称した。
興福寺奉行 興福寺の幕府への連絡、折衝、取次ぎを司った東大寺奉行と合一して「南都奉行」とも称した。
石清水八幡宮奉行 石清水八幡宮の幕府への連絡、折衝、取次ぎを司った。「八幡宮奉行」とも称した。
鶴岡八幡宮奉行 鶴岡八幡宮の幕府への連絡、折衝、取次ぎを司った
山門奉行 延暦寺の幕府への連絡、折衝、取次ぎを司った「延暦寺奉行」とも称した。
天竜寺奉行 天竜寺の幕府への連絡、折衝、取次ぎを司った
禅律方頭人 禅僧の任命、人事を司った。
神宮頭人 伊勢神宮の行政、幕府への連絡、取次ぎを司った。「神宮奉行」とも称した。
公文奉行 禅徒の文書を司った。
唐船奉行 外国文書・貿易を司った。
宿次過所奉行 駅伝・関所切手のことを司った。
政所 政所執事 政所の長官。幕府の財政と御家人領地に関する訴訟を掌り、執事は伊勢氏が世襲した。次官として執事代が書類・文書の出納・勘査を行った。
執事代 政所の次官。斎藤氏、松田氏が交替で就任
政所代 執事の代理官。伊勢氏の家臣の蜷川氏が世襲
寄人 政所の評定に参与し、執事のもとで、執筆などの雑務を行った。定員は十数人。
公人 政所の雑用官。下級職員。「政所下部(まんどころしもべ)」とも称した。
政所管轄 申次衆 格式は御部屋衆に次ぐ職務。奉公衆で将軍直参。足利義教のとき設置され、拝謁者が参上した際にその姓名を将軍に報告して将軍への拝謁を取り次ぎ、同時に関連する雑務も処理した。
伊勢・上野・大舘・畠山の一族が世襲。伊勢宗瑞(北条早雲)も申次衆であったと近年では考えられている。
披露奉行 評定始のときに奏事をおこなう役職。御前奉行とも称した。
御所奉行 将軍の寺社参詣や年中行事など御所の雑事を統轄した。
御出奉行 将軍が外出するとき、供の者の人数を定め、また、行列の整備などにあたった。
御物長持奉行 将軍外出時の衣服等を入れる長持をつかさどった。
御物奉行 将軍参内時の衣冠・刀剣などを入れた唐櫃に添い従い、禁中では将軍の装束の着替えなどのことをつかさどった。
作事奉行 殿舎の造営・修理や土木などの工事をつかさどった。
材木奉行 材木の調達・管理をつかさどった。作事奉行のもとで、造営用の材木の調達・管理にあたった。後に石奉行を兼任し、材木石奉行と称した。
普請奉行 御所・城壁・堤防など造営をつかさどった。
厩奉行 幕府の厩のことをつかさどり、また、将軍の外出につき従った役。
段銭奉行 段銭の賦課をつかさどった
段銭国別奉行 段銭の徴収のために諸国に派遣された役職
倉奉行 幕府の米穀の出納、米蔵の管理をつかさどった。
折紙方 略式文書をつかさどった。
貢馬奉行 毎年正月5日、諸国からの貢馬を将軍から朝廷へ献納するのに先立ち、将軍が内覧を行う儀式の総指揮を執った。
吉書始奉行 改元・将軍継嗣・官位昇進などの吉事文書の開始のときを奉行をつかさどった。
御判始奉行 将軍継承のときに行う判始のことをつかさどった。
弓始的奉行 1月17日の幕府弓始のことをつかさどった。
大嘗祭総奉行 大嘗祭の雑事をつかさどった
椀飯奉行 1月の諸家から幕府に献上される椀飯を献上する儀式をつかさどった。
御憑総奉行 幕府への献上物をつかさどった。
御祝奉行 将軍宣下、任大臣・大饗などの儀式の際、宴席のことをつかさどった。
庭奉行 庭の掃除・造作をつかさどった。
祈祷奉行 陰陽家や僧侶に、将軍家の疾病や怪異・天災などを払う祈祷をさせた。祈奉行。
御撫物使 人形などを本身の代わりに災厄を払う職務。
昇進奉行 将軍官位叙任のときの雑事をつかさどった。
侍所 侍所所司(頭人) 侍所の長官。山城、京都市中の警備と刑事裁判を掌る。長官である所司には山名・赤松・一色・京極の4氏が交代で就任、四職という。
侍所所司代 侍所の次官。山城、京都の守護、禁中・公家に関する政務を司り、京都・伏見・奈良の三奉行の支配を行った。四職の家臣が就任した。
侍所小所司代 所司代の代理官。所司代の家臣が就任した。
寄人 侍所の評定に参与し執事のもとで、執筆などの雑務に当たった。
開闔 書物の出納や雑務に従事。上席の寄人から選任
侍所
管轄
地方頭人 地方の長官。京中の知行の安堵・事務処理などをつかさどった。初めは引付頭人の中から選任されたが、のち摂津氏が世襲。
地方開闔 地方の役人。訴訟事務の進行などにあたり、書物の出納や雑務をおこなった。
地方寄人 地方の役人。訴訟審査・判決の記録を行った
御門役奉行 兵士を動員して幕府・禁裏の諸門を警備する役職。
検断職 京都市内および周辺の警備、それに関する雑務を取り扱った。
目付
問注所 問注所執事 問注所の長官。記録の保管・公私文書鑑定や訴訟を担当。執事は町野・太田両氏が世襲した。
問注所執事代
寄人 問注所の評定に参与し執事のもとで、執筆などの雑務に当たった。
問注所管轄 越訴奉行 受理・再審に当たった臨時の職。審理が始まると、引付(ひきつけ)奉行人の中から1、2名が選ばれ、頭人の指揮に従った。
証人奉行 裁判が公平に行われるように訴訟人の対決に立ち会った役。
検使奉行 検使をつかさどった。
奉公衆 役職などではなく、幕府直属の武官官僚。将軍の馬廻り(親衛隊)といっていい存在で、構成員は有力御家人や足利氏の一門、有力守護大名や地方の国人・豪族などから選ばれた。所属する番は世襲で強い連帯意識を持っていたとされ平時には御所内に設置された番内などに出仕し、有事には将軍の軍事力として機能した。
その数は五番編成で、各番に50〜100名。総勢300〜400名程で、各番が抱える若党や中間なども含めると、番の兵力は一つで1000〜2000名。五番全体で5000から10000の兵力を保有していた。
地方の御料所(将軍直轄領)の管理を任されており、所領地の守護不入や税の徴収などの特権を与えられていた。
しばしば文官官僚である奉行衆とは対立し将軍がどちらに重きをなすかで闘争が行われていた。
奉行衆
(右筆方)
役職などではなく、幕府直属の文官官僚。現在の官僚と同じで各機関や評定に配置され公文書や記録の作成などを行った。後には将軍が主宰する御前沙汰(将軍主宰の非公式な評定。後に評定衆・引付衆による評定に代わって公的な決定も行った)にも御前奉行人と呼ばれる右筆中の有力者が参加を許されるようになり直接意見を述べるようになるなど、発言力を増していった。しかしあくまで官僚であり、次官職である開闔・執事代にまでしか昇進できなかった。
定員は奉行衆全体で約60名、うち右筆が約40名、更にその中で20名前後が御前奉行人であったといわれている。
鎌倉府 鎌倉公方 正式な役職ではないものの将軍の代理として関八州・甲斐、伊豆後には奥州をも管理する鎌倉府の長官。代を重ねると将軍職を狙い京の将軍と対立するようになるが鎌倉公方でも内部抗争があり、また補佐役である関東管領との対立や鎌倉公方派、京・関東管領派などの各群雄などの争いが絶えなかった。
鎌倉府には京都の幕府と同じく政所、侍所、問注所、引付衆、個別寺社を扱う別奉行などが設置されていた。
関東管領 鎌倉公方の補佐で将軍によって直接任命される。強大な権限を持つ鎌倉公方の押さえ役であり、鎌倉公方とは絶えず争いを続けていた。本来は関東管領が関東の支配を受け持ち、関東執事がその補佐であったのだが、鎌倉府が勝手に鎌倉公方(将軍)を名乗ってしまっていたので補佐的な地位になってしまった。はじめは畠山氏の職であったが、代々上杉家が世襲。上杉家も山内、扇谷、宅間、犬懸などの諸家に分裂し権威を低下させていくのである。
鎌倉府管轄 評定衆 鎌倉府の最高政務機関であったが後には有名無実化してしまう。
評定奉行 評定衆筆頭が選ばれ、政所評定を統率した。
問注所執事 問注所の長官。町野・太田氏が世襲した。
政所執事 政所の長官。
侍所執事 侍所の長官。
越訴奉行 政所管轄。受理・再審に当たった臨時の職で、審理が始まると引付奉行人の中から1、2名が選ばれ、頭人の指揮に従った。
社家奉行 神政所管轄。神官の人事や神社に関する訴訟などをつかさどった。
鶴岡総奉行 政所管轄。関東管領が設けた職で鶴岡八幡宮の鎌倉府への連絡、折衝、取次ぎを司った
箱根奉行 政所管轄。箱根神社の鎌倉府への連絡、折衝、取次ぎを司った
禅津奉行 政所管轄。関東の禅僧の任命、人事を司った。
御所奉行 政所管轄。将軍の寺社参詣や年中行事など御所の雑事を統轄した。
造営奉行 政所管轄。社寺などの造営をつかさどった。
京都御扶持衆 役職ではないが、関東、東北の武士で鎌倉府支配を受けず、将軍と直接主従関係を結んだ守護、国人。
(甲斐武田、常陸山入氏、小栗氏、真壁氏、大掾氏、下野宇都宮氏、那須氏、小野寺氏、陸奥篠川御所、伊達氏、蘆名、南部、白川結城など)
幕府に反抗的な鎌倉公方に対抗する目的の為に任命、組織され、鎌倉府に出仕する義務はなく、鎌倉公方の指揮も受ける必要がなかった。(とは言っても鎌倉府に出仕する者も居た。)
上杉禅秀の乱においては元関東管領である上杉禅秀側を支援、あるいは中立を宣言し鎌倉公方と対立。後に鎌倉公方が滅亡した後に自然消滅した。
地方官 九州探題 九州の統治の為に大宰府に置かれ朝鮮との外交も担当したが、古来から九州で守護をしていた名家が多く、実際には北部九州の一部のみを支配下においていたに過ぎなかった。こちらも関東同様地元守護、豪族と絶えず争いを繰り広げていた。渋川氏が世襲。
奥州探題 奥州の統治の為に置かれた役職であったが、元々独立心が強く強大な権限を持つ奥州の豪族を統治できるはずもなく、ほとんど名目的な地位に過ぎなかった。畠山・吉良氏が勤めていたが、のちに大崎氏が世襲。
羽州探題 羽州の統治の為に置かれた役職だが奥州探題と同じく実際の統治能力はあまりなかった。元々は出羽も奥州探題の管轄であったが、奥州探題斯波家兼の次男、斯波兼頼が出羽探題に就任し以後子孫が世襲。後に最上氏を名乗り最上氏が世襲した。
中国探題(管領) 中国地方の安定、統治、防衛の為に置かれた役職で長門探題の足利直冬に対行する為に設置された。直冬勢力が鎮圧された後は有名無実化し、後に中国地方を統治した大内氏が称した。
四国探題 四国の安定、統治、防衛の為に置かれた役職で細川氏が世襲していたが、四国が安定したのと四国探題に就任した細川頼之が管領、中国探題になってしまい有名無実化してしまった。
守護 もともとは国内での謀反人の捜索や京、鎌倉での警備任務など軍事面のみの権限で、朝廷の任じた国司の権限である行政権や領国支配権はもっていなかったのだが、後々には軍事兵糧の調達を名目に徴税権、さらには行政権と司法権も手にいれ実質的支配権を手にする事になる。
足利一門や有力守護は幕府出仕、中央での権力闘争、京在住で自国を直接統治できない。その為現地支配の為に一族や重臣を現地に派遣して統治させた。これが守護代である。
応仁の乱後は権威が失墜、京より統治していた領国に引き上げるが、すでに領国の実質的統治は奉行や国人に握られており早々に追放されるか名目的な統治者になってしまう。
中には有力国人の被官化、家臣化に成功し守護から戦国大名化した守護も居る。
守護代 守護が京在住の為に守護の一族、重臣が代理として現地に赴き実質的統治を行った。
統治は行ったものの、守護の代理としててあり、守護代自体は領土や銭を持っている分けではなく
京在住の守護からの段銭、私段銭(税金)要求や無理難題、現地豪族、国人との板ばさみに合う。
室町後期には守護の権威が失墜した為、守護代の権威も失墜。守護代の下で実際に領地を運営していた小守護、奉行、国人にとってかわられた。
中には代々少しずつ力を蓄え(段銭をちょろまかしたり、寺社、豪族の領土を横領したり)戦国大名になった者(尼子、朝倉、長尾、三好など)も居るが、殆どは地元豪族に恨まれたりと守護と共に追放されたり非業の最期をおくる事が多かった。
小守護代 守護代の下、郡の統治を行った。数カ国を有する守護の場合、守護代も在京の場合が多く、実際には小守護代が現地で統治を行った。
守護使 守護から派遣されて、領国で検断、判決の強制執行、段銭の徴収などに当たった臨時の使者。現地の守護代が横領したりしていると派遣される。
地頭 元々は源頼朝が勅許を得て制度化。全国の荘園・公領に置かれ、土地の管理、租税の徴収、検断などの権限を持っていたが行政権は持っていなかった。しかし時代とともに職権を強化していき、室町時代には荘園・国衙領、寺社領を横領し在地領主化が進行した。承久の乱以前のものを本補地頭、以後のものを新補地頭という。
室町に入り守護の権威が強化(半済(荘園・公領の年貢半分の徴収権)使節遵行(所領紛争へ介入する権限)の付与)されるにつれ、地頭としての権威は失墜。室町中期には国人(在郷領主)へと変質していった。
地頭代 地頭の代わりに在地にいて実務を担当した者。守護代と同じく一族や郎党の者が任命された。地頭代官。